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師弟関係について思うこと

第333回 菊田 浩 (2026.1.20)

1998年に公開された映画、「レッド・ヴァイオリン」。

17世紀、イタリアのヴァイオリン製作家が、亡き妻の血をニスに混ぜて塗ったことで「呪いのヴァイオリン」になり、300年に渡って関係者が事件に巻き込まれるという内容で、公開当時は私も衝撃を受けましたが、ストーリーは面白く、記憶に残る映画です。


ですが、1つ、疑問に思うシーンがあります。

それは、映画の冒頭、弟子が製作したヴァイオリンを師匠に見せた時に、師匠が楽器を叩き壊す場面です。
厳し過ぎる師弟関係というイメージですが、現実にそんな事が起こるのか?私は疑問に思います。


ヴァイオリンは、材料選びから始まり、荒削り、アーチ、厚み出し、仕上げなど、数多くの工程を経て完成します。
それぞれの工程で、弟子は師匠から指示を受けながら製作しますが、最初から上手くはできないので、作業ごとに、ある程度の完成度のところで止め、不十分な点は「次回作への課題」として、次の工程に進みます。


こうして製作した楽器は、「次回作への課題」が積み重なったものなので、全体のクオリティは低いわけですが、それを師匠が叩き壊してしまうのは、完成するまで楽器をきちんと見ていなかった、つまり、弟子の技術レベルを把握できていないということになり、人にものを教える立場としては失格ということになります。

映画では、この師匠は、教える立場として尊敬を集めている人物という設定なので、このシーンは、ヴァイオリン製作の難しさを表現するために過度に誇張されたものと感じます。


例えば陶芸の世界では、完成した作品を叩き壊すことは実際に行われていますが、ヴァイオリン製作とは意味が異なります。

陶芸では、最後に釉薬を塗って窯で焼くという工程があるので、どれだけ温度管理を徹底しても、強い炎がどのように作品を包むのか100%は制御できない、つまり、焼きあがった作品には不確定な要素が反映されるので、満足できないものは破壊するしかないという理由で、説得力があります。

もちろん、ヴァイオリン製作でも、完成した作品に満足できないことは起こりえることですが、すべてが経験とノウハウの結果ですので、叩き壊すという行為は、自身の未熟さを誤魔化すことになります。
納得できない作品は、手元に置いて、日々の反省の材料にすべきです。以上が、この映画の冒頭シーンについて私が疑問に思う理由です。

 

さて、いままで、師匠の立場を論じてきましたが、一方で、弟子としてはどのような姿勢が望ましいのでしょうか。
いろいろな考え方があるので、一概には言えませんが、私は以下のように考えます。

 

一言で言えば、「修行中は師匠の全てを受け入れて、自己を捨てて、100%の模倣を目指すことが、高いレベルに到達できる近道である」と考えます。
模倣を目指した結果、師匠と見間違うほどの作品が完成できたら、それは製作者として一人前のレベルに達したと言えます。
個性や独自性は、その段階になれば、自然に作品に表れてくるものです。
技術レベルが低い段階から個性や独自性を出そうとしても、それは表面的なものとなりますし、結果的に遠回りをすることになります。
そのためにはまず自己を捨てることが大切ですが、それ以前に、信頼できる師匠と巡り合えるかどうかが最も重要かもしれません。


私は、クレモナの製作学校ではロレンツォ・マルキ先生に習い、刃物の研ぎから始まり、削り方、仕上げ、ニスに至るまで、すべてをコピーすることに集中しました。
また、卒業してニコラ・ラッザリ氏に弟子入りしてからは、師匠と寸分違わないくらいのヴァイオリンを目指し、試行錯誤の日々を送りました。
どちらの師匠も、映画のように最後に叩き壊すようなことはせず、工程の一つ一つで明確に導いていただける、信頼できる指導者でした。


クレモナに留学して5年後の2006年にコンクールで良い成績を残せたのは、この師弟関係の中、有意義な修行をできたことが大きかったと思います。

今年はその2006年から20年目となりますが、師匠であるニコラ・ラッザリ氏の作品を目指して修行する日々は変わっていませんし、今後も、さらに良い楽器を目指して精進したいと思っています。


私自身、今年で65歳を迎えますが、製作した楽器が「呪いのヴァイオリン」になることが無いよう、心穏やかに過ごしていければと願っています。
人生、まだまだ何が起きるか分かりませんが。

2002年、ロレンツォ・マルキ先生と

2004年、ニコラ・ラッザリ師匠と