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父と音楽

第128回 中西 桂仁(2016.10.05)

去年の展示会の時期に丁度重なるように父が亡くなった。2年ほどの闘病の末、最後の数ヶ月は自身で歩く事もできなくなり、病気のせいで幻聴や妄想がひどくなっていった。何よりも私にとって意外というか衝撃だったのは、父が音楽を聞かなくなった事だった。聞かないというよりは聞けないというのが正確だったのかもしれない。病気になるまでは、毎日何時間でも音楽を聞いている人だった。

父は幼いころから音楽が好きで、若い頃はJAZZに熱中していたらしい。栃木に住んでいたにも関わらず、都内で行われる海外の演奏家のコンサートに頻繁に行ったり、まだ結婚する以前、仕事の関係で都内に行く機会の多かった母に頼んで、仕事帰りにレコードを買って帰ってきてもらう事は日常だったらしい。道理でうんざりするほど大量のレコードがあるわけだ。

現実離れしたデカさ。なんでこうなった・・・。現実離れしたデカさ。なんでこうなった・・・。

そんな父だったので、スピーカーから流れる演奏を聞けば、何年の録音で演奏者は誰と誰と誰、と、何も見ないで正確に言い当てたそうだ。音楽好きが集まる地元の喫茶店の常連だった父は、他の常連客の方々と情報を交換、共有し、ともに音楽を楽しんでいたらしい。これらのエピソードを、父が亡くなったあとに音楽仲間のみなさんから教えていただいていると、若い頃の父の姿が目に浮かぶようだった。

定年後はクラシックを中心に、蓄音器でSPレコードを演奏する事を楽しみにして、頼まれると車で1時間以上かかるような場所まで直径95センチはあるホーンを運んで演奏した。ひとりで聞いているのは勿体無い、興味のある人に聞いてもらって、こんな音楽がある事を知ってもらい、喜んでもらいたい。純粋に音楽が好きだった父らしい思いだったと思う。

1日1枚聞いて何年かかるかとか考えるのはよそう。1日1枚聞いて何年かかるかとか考えるのはよそう。

レコードでも蓄音器でも、音楽が鳴っている間に喋る事を父はしなかった。いつも目をつぶってただ音楽に耳を傾けていた。真剣に演奏しているプレイヤーに対する、それが礼儀だと父は心得ていた。本当に音楽を愛していたのだろう。そんな父のもとに生まれていなければ、私は今、楽器製作の仕事をしていなかっただろうと思う。父が亡くなって時間が経つにつれ、父に対する尊敬と感謝は強くなるが、生きている間にそれを伝えられなかった事が何より悔やまれる。だからこそ、これからの自分の仕事でそれを形に、音にできたらと思う。音楽好きの父ならば、必ず見ていて、聞いてくれているだろう。

 

次回は10月20日更新予定です。