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もしも、あの人が居なかったら?

第286回 菊田 浩(2024.02.05)

「イエスタディ」という印象深い映画があります。
売れないロック歌手の若者が、ある日、異次元世界に迷い込みます。
一見、元の世界と変わらないように思えましたが、その世界には「ビートルズ」が存在していませんでした。
いつものように、なにげなく友人たちの前で「イエスタディ」を口ずさんだ時、その曲を初めて聴く友人たちが感動する様子に驚き、「ビートルズを知っているのは自分だけ?!」ということに気づきます。
その日から、彼は次々とビートルズの曲を世に発表し、天才ミュージシャンとして栄光をつかんでいくという話です。

この映画の例のように、「もしも、あの人が居なかったら?」という話はよく聞きます。
私は弦楽器製作者なので、もしストラディバリが居なかったら?という世界を空想してしまいます。
もちろん、ストラディバリが存在しなくても、アマティ、ガルネリなどの名人により、ヴァイオリン製作は同じように発展したと思いますが、ストラディバリの作品に影響された後年の製作家の作風は大きく変わったと思いますし、私たち現代の製作家も、「ストラディバリモデル」が存在しない中、何を目指して修行していくのか、心もとない状況になったと思われます。
世の中の新作楽器の大半がガルネリモデル、という世界も楽しいですが。

一方、弦楽器の世界を離れると、もし、スタジオジブリの宮崎駿監督が存在していなかったら?という世界を空想することがあります。
宮崎監督の作品は、圧倒的な画力と完成度で、世界中のアニメ作品のクオリティとスタイルを大きく向上させましたし、その内容の奥深さで、私を含めて、多くの人生を変えたと言っても過言ではない気がします。
その宮崎監督の最新作であり、長編映画としてはおそらく最後の作品となる、「君たちはどう生きるか」を、昨年の帰国時に映画館で鑑賞しました。いろいろ賛否のある映画ですが、私は大きく感銘を受け、宮崎監督と同時代に生きられたことを心から幸福に思う作品でした。内容についてはここでは触れませんが、「どう生きるか?」という宮崎監督からの強いメッセージを感じ、それにどう答えていくのかを考えさせられる内容でした。

私自身、60年以上生きてきて、周りの人に助けていただくことが多かったことを思い出しますし、知らないあいだに誰かによって「生かされた」こともあったのだと思います。
また、時には主人公の少年のように、「悪意」を持って自らを傷つけて、自分を偽り、目標を見失ったこともありました。
良いことも悪いことも、過去は変えられませんが、これから「どう生きるか」は、自分が決めることができますし、「どう生きたか」を未来の自分が後悔することの無いように、一日一日を生きていきたいと思います。製作家としての名声や地位を気にするよりも、製作した楽器がお客様のもとで良く鳴っているか?、響いているか?を思いながら毎日を過ごし、さらに良い楽器を製作していきたい。それが、「どう生きるか?」という問いに対する今の私の答えですし、今後も、その軸だけはブレないように精進していきたいと思っています。

遠い未来の人たちが、「もしも、菊田浩が居なかったら?」などと会話する光景は想像できませんが、私がこの世を去った後も、製作した楽器が世界のどこかで、誰かの良きパートナーとなって音楽を奏でていてくれたら嬉しいなと思います。