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音の先にある景色

第169回 清水 陽太 (2018.12.20)

 

あの楽器はいい音がする。
と言った時、あなたはその“いい音”がどんなものか言葉で表現できるだろうか?

ありきたりの形容詞を並べても、共通体験の“いい音”を知らない相手と
それを同等の価値観として共有することは難しい。
そこには個々の好みがそれを判断するのに加味されるのでさらに複雑になる。
理解はされても共感はされないという場合もあるだろう。

これについて、ものすごく大雑把に逆説的に言えば“嫌な音ではない”音。
アバウトでまた、特別いいわけではないかもしれないが“誰もが感じるいい音”はそこにある。

特別良いという部分は今のところ触れない、誰しもが嫌な音と感じないというところから始めよう。
それぞれの好みはあるものの“嫌な音でない”ことは根源的であり、それが出ないように練習することはどのような楽器でも基本として入口に置かれている。なのでこれをおろそかにすると演奏していても楽しくないし、またそれを楽器の所為にしてしまったりするとケースが物置から発見されるのは数年後。ということになりかねない。

名人上手が粗末な楽器を用いてもそれなりに聴けるのは、嫌な音を出さないでいるから。

楽器の違いにおける音の好みは蕎麦かうどんか素麺か、とストラドかガルネリかアマティかを同列に並べるのもいかなものかとは思うがそれぞれの個性があり、それぞれがスープ(曲)によってさらに良さが引き立つ場合もあれば、今一つな場合も出てくるのは面白いかも?と思いながら、イタリア生活あるあるのスパゲッティアレンジにおけるスパゲッティの懐の深さを帰国後想い出していると、どっこいしょと垣根を越えたカルボナーラうどんなるものを飲食店のメニューに発見し、好みの多様さに感心する。

帰国してからは自作楽器、古い楽器など様々な楽器の音調整について、演奏会や試奏会の折、大小ホールからサロン、私邸音楽室、防音室やスタジオなどでも聴きながら模索を続けており、このいい音について一つ“好み“の前に必要なんじゃないか?というものがハッキリしてきている。

音の遠達性も関連しているがそれはまたの機会にして、今回は独奏以上の編成で演奏する際の音の分離性ということにフォーカスしてみる。独奏の場合は自分が出している直接音と残響音との分離性という事に注意して見ると解かり易いかもしれない。
遠達性の無い音が直接音の近くで反響することに起因する音の不明瞭さは、気持よくお風呂で一節のあれと良く似ている。傍から聴いているとメロディーなどから曲を判別することはできるが、アナウンサーの素晴らしい発音のようにしっかりと歌詞が聴こえてくるわけではない。しかしこの問題は空間音響や発音の問題も関連し一つの要因に絞って考える事が難しくなるのでひとまず置いておこう。

ピアノとヴァイオリンという組み合わせはプロからアマチュア、老若、演奏する機会が多いと思うが、そういった演奏を聴くときに、曲の全編に於いて両方の楽器から紡ぎだされる音符が分離してい聴こえるか?ということを意識して聴くと面白い。

幸運にもそういった演奏に出会える時、その曲の持つ魅力を再発見したり、より深く感じられると私は実感している。そんな演奏会で小さな女の子が前席の背もたれにつかまり立ちするようにステージを凝視しながら聴いている姿はとても印象深かった。この小さなお客さんもまたこの演奏家の“ヴァイオリンの音“以上に演奏家の奏でる”曲”に惹き込まれていたと疑わない。

ピアノとヴァイオリンの音質がかぶることがそれぞれのフレーズの明瞭度を下げることにつながっている。
ピアノとヴァイオリンの音質は明らかに違うじゃないか!何言ってんだ?と思う方もあるだろうが実際に演奏会に足を運べばそういった機会に触れることは難しくない。

おなじみのヴァイオリンパートのフレーズだけを頭の中で追いかけるように聴いていては解からないが、ピアノパートの動きを意識するだけでも曲の面白さ、豊かさは増す。余談になるが「ピアノ伴奏」という言葉が刺身のツマのようにあるものではなく、飾り切りを施された季節の野菜のように同じ皿にある時「合奏」として曲の厚みが増すのではないかと思っている。そして強音で音符が同じタイミングで重なるフレーズを聴けば両方の楽器の音が聴きとれるか否かは簡単に解かる。

もちろん「好み」は色々あるのでヴァイオリンの音だけがバーンと前面に出てきて隙間にピアノの音が覗くようなのでもいいのだが… よくよく聞いていると、こういった傾向の音は、中高音域で弾いている時は良く聴こえるものの、低音域ではピアノの音質が近いせいか、これまで後ろにいたピアノがヴァイオリンに覆いかぶさり曲としていささか不明瞭になる。という場面に遭遇する。ヴァイオリンは努めて対等でいたいのに、音質がかぶるせいでピアノに隠れてしまうという現象。
またアルコで強制振動させている時は音が通るのにピッツィカートを多用しなければならなくなると急に音の線が細くなったり、余韻が短くなったりというのも共通した弱点のように感じる。ピッツィカートはミュートまでは指示していない、だから楽器が勝手にミュートしては困る。もっとポーンとはじいた音が広がるとメロディーが繋がるのに、と感じておられる方も多いのではないだろうか。

ステージの上では奏者が互いにそれぞれの出す音が聴こえているからそういった現象が減らないのかもしれないが、客席では同じように聴こえない。これを客席にも同じように音が届くような調整を、新作をさらに発展させていきたいと考えて日々あれこれ考えながら仕事とむきあっている。

 

コンサート前の最終チェック中コンサート前の最終チェック中

 

今さらだがお断りしておかなければならないことは、二つの楽器の音量バランスを指摘しているのではないことと、演奏法や演奏技術の事までは私が言える範疇ではないことは重々承知しているので、そこの問題ではないという立場から検証しているし、常に現場や録音でも確認することにしている。

あくまで技術者が楽器側でできることである。ついでにユーザーでもできることを言えば弦の選択がある。
自分が好きな弦や楽器との相性が良いと思う弦をお使いの方も多いと思うが、編成や会場によって弦のキャラクターを利用すればこの分離性をある程度コントロールすることができる。その際の留意点として各弦の張力が大きく変わらない弦で異なるキャラクターが見つかればベストだろう(張力データは各弦メーカーがWEBサイトやカタログにて公表し始めているので参照可)。弦の張力設定が変更される場合、魂柱など本体側の調整をしないとベストセッティングとなりにくいが、張力設計が近い数値の、異なるキャラクターの弦は張り替えるだけで使用目的に応じた変更を効果的に行い易い方法だと考える。

“いい音“は主観・客観つまりお客として聴くのか、プレーヤーとして、さらに自分の楽器をどの観点から(ステージor客席)聴くのか非常に定義が難しい。さらに音の明暗から、透明度や太さ、ヌケまで様々なパラメータが”好み“として組み合わされるから楽器を選んだり、所有している楽器の音を追い込んでいく作業は楽しく、また悩ましいのかもしれない。だからこそ普遍的な良さを探ることはカルボナーラうどんまでもをどっしりと支える“麺である魅力”のような本質的な部分の洗練であり、常に求めていたいと思う。

その本質が描き出す風景は、道具を手にする人が丁寧に表れるようなものであればよいなと願う。