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関西に生まれた新しい弦楽器職人の組織

第8回 岩井 孝夫(2011.05.16)

今回は関西弦楽器製作者協会がどの様な経緯で今に至っているか書いてみます。

私がイタリアの修業から帰国したのは1992年のことだった。ある日、一通の招待状が届いた。差出人を見ると弦友会ボーリング大会と書いてあった。話を聞いてみるとこれはボーリングを通じて関西の弦楽器業界のメンバーが年に2回集まり、親睦を目的に行なわれている事がわかった。これに参加したことが、私にとっては初めてのこの業界の人々との出会いであった。

会場に行ってみると当時のこのボーリング大会の平均年齢は50代半ばで結構高かったように思う。参加者は30人位で4人が1チームとなり、7~8レーンを貸切り団体戦が行なわれていた。その頃は3ゲームの合計点で争うルールだった。1ゲーム目は和気あいあいと関西人特有のオーバージェスチャーでボールを投げたり、受けを狙いながらのギャグの連発でゲームが始まる。2ゲーム目は早くもオヤジのスタミナは切れてきて、初めの騒がしさはかげりを見せてくる。3ゲーム目になるとゲームスコアは極端に下がり、参加者の半分以上が息があがり、酸欠状態になりボーリングは静寂の中で淡々と行なわれていた。
そしてゲーム終了後はボーリング場内にある中華レストランで食事会となる。そして表彰式と景品授与が行なわれる。結果的に優勝したチームが一番大変な次回の幹事になるという矛盾したルールだったが、この儀式はずっと繰り返されていた。その時いつも面白かったのは、3ゲーム目はあれだけ静かだったオヤジ連中はいつの間にかアルコールの力を借り、不死鳥のごとく生き返り大声でだじゃれ合戦となっていたことだ。私は1995年から2005年までの10年間バイオリン製作学校をやったので、その卒業生の就職を探すため進んでこのボーリング大会に参加した。そのうち就職を取り付けるのも大変になっていき、この学校は10年で閉めた。

その後、ボーリング大会に参加することも少なくなっていたが、ある時、私の30数年来の友人である藤井さん(弦楽器セレーノ)が独立してこのボーリング大会に参加したと小耳にはさんだ。ある年、久しぶりに彼に会おうと思い、私はボーリング大会に参加した。結果的にはその時、彼は不参加でその場で会うことは無かったが、私が製作学校をしていた時の卒業生(馬戸建一、古川皓一、城戸信行、馬戸崇之)の4人がそこに参加していた。
ボーリングと食事会が終わってから、その卒業生4人と私の5人でボーリング場内の喫茶店で2次会を開いた。そこで話題になったことはみんな卒業して数年が経っていたし、楽器を作る技術を身につけたがそれをどのように販売に繋げるかということだった。どうしてヨーロッパ製の楽器がよく売れ、私達の楽器は売れ行きが劣るのか、いつものように少し暗い会話になりかけていた時だった。メンバーの中の一人、城戸さんが「5人いるならひとり5万円出せば25万円集まり、それで大阪の中心地で私達の展示会をやれば私達の存在を知らない多くの人に知られる機会になる」と意見を発した。私はその時、5万円という高額な金額に対して驚いた。「5万円も出すとは売る気まんまんやなあ。それ給料の4分の1か?」と思わず言葉が出た。今でこそ彼は独立を果たし自分の店を持っているが、その当時の彼は、ある弦楽器店で職人として働いていた一社員であるゆえ、5万円は大金だろうと思った。そしてもし売れなかった時の彼の1ヶ月末を心配した。しかしその時の彼は良いものは売れるとの自信を持っていた。彼の小鼻はモンタニャーニャのチェロのふくらみのように大きくふくらみっぱなしだった。しかしそれを聞かされた私達は、彼の言葉を疑うより彼こそが真実を語っている、力を合わせ皆が一つになれば夢は叶うとその時実感した。これを踏み台として、大きく羽ばたこうと皆の気持ちがひとつになった時だった。

その後、5人が7人になり、バイオリン製作学校卒業生の小さな組織で始まったが、門戸を開放し、志を同じくする職人であれば入会できるようにして、関西弦楽器製作者協会が設立されました。
今月の展示会では参加者が34人となり、展示楽器も70本以上になりました。そして弓も展示されます。この新しい職人の活動がより大きくなり、この関西の音楽業界に貢献できるようになりたいと思っています。
私達職人一同 みなさまのご来場をお待ちしております。

最後に私たちの展示会をあたたかく見守っていただいている後援者の方々にお礼を申し上げます。

岩井孝夫

次回は6月5日更新予定です。