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この世の中の本当の本物

第154回 鈴木 郁子(2018.03.05)

クレモナでの修行時代、部屋を探している時に行きつけのパン屋さんから「あそこのアパートで空き室が出て改装中みたいよ」と情報を頂いて、アポイントを取って見に行った。

 

 

白髪のずんぐりとした男性がランニングシャツと半ズボン姿で、長梯子を抱えて登場。素敵な笑顔で<Ikukosan!>と迎えてくれた。「この人、誰?」。それがあの世界的なバリトン歌手Aldo Protti と私の出会いである。そう、アパートの大家さんだったのだ。

 

お家賃を払いに行く時、レッスン中の歌声が響き、それまで声楽にあまり興味のなかった私を一瞬でその世界へ引き込んだ。ベルカントBel Cantoとは何か?彼の声を聴けばそれで十分だった。

 

 

本物を目の前にした時、言葉はいらない。楽器の美しさもそうなのだが、すべては自然の中に存在する。彼の声は「この世に存在する本当の本物の一つ」と私は思っている。

 

それを機にオペラにはまり、クレモナPonchielli劇場のオペラシーズンの天井桟敷のシーズンパスを毎年購入し、各地のオペラ祭にも通った。

もちろん彼が歌う機会には連れて行って頂いた。Busseto RoncoleのVerdiの生家前広場でのAidaは忘れられない。

 

ご家族やお弟子さんの集まるクリスマス会やお食事会にも呼んで頂いた。

新ジャガ芋を使ったニョッキは彼の得意料理だった。

Vigolenoにも連れて行って頂き、山を下りるだけで風味の変わって行くワインの美味しさも教えて頂いた。

 

彼のお父様が大理石彫刻家であったこともあり職人としての私に沢山お話をしてくださった。今もVia SolferinoのPasticceria Lanfranchiの入り口辺りにその作品を見る事が出来る。

<Ikukosa~n、大理石は失敗きかないんだよ。欠けたらもう使えない。その点、木工はいいよね!>とからかい半分に私に語ったものだ。

 

また彼は哲学者でもあった。彼の幼なじみの葬儀の後、居間に差し込む日差しとその影の動きに「時の流れ」を語った。

 

ある日彼は私に語った。

 

 

<Ikuko、わかっているか? 樹は二度生きるのだよ。

最初は天に向かって大地に根を張り天に向かい何百年。

そして家となり、楽器となり…>

 

これから数百年生きるであろう楽器という形の二度目の誕生を慈しみ、

心を込め真摯に向かいあってゆきたいと思う。