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調和

第29回 清水 陽太(2012.04.05)

様々なところで見聞きする単語である。
ハーモニーというカタカナでもよくでてくる。この言葉を聞いて人は何を連想するのだろうか?

クラシック音楽を愛される方々はヴィヴァルディやプッチーニが思い浮かぶだろうか。他にも様々な分野でこの調和という言葉は使われていると思うので他にもたくさんの連想されるものがあることだろう。
ついでに言うと「調和を重んじる国民性」と言われる我々日本人の文化を表す時に用いる“和風”にもこの“和”という文字があることは興味深い。

少しだけ考えてみると日本文化の動的均衡の穏やかさが“和”なのではないか。人工的な美しさを避け自然をそのまま持ち込もうとした日本庭園もまた、和を重んじた先達の美意識にある調和だったのだろう。反対にヨーロッパの庭園は製図法によってデザインされ、洗練された種類の違う美意識によって作られ、その動的均衡は大きな動きの中にまとまっているように感じる。
どちらも調和していることに変りはないが“何が”ということはすこし違いがあるのかも知れない。そして“動き“が大きく違うのではないかと思う。

 私がこの“調和“ということを大きく意識し始めていたのはクレモナの製作学校の学生の頃で、それからは常に頭の片隅にある。具体的には楽器作りにおけるそれで、当時線の統一感という概念をマエストロから教わり自分の楽器を作りながら考え続けている。
当時からすれば経験値は上がったが、これは完結するものではないと思っている。本当に難しい。頭で考えても答えは出ないので実際に手を動かしながら見ていく。当時はさっぱり分からず(見えてこず)あれこれ考えて色んな楽器を見て悩んでいた。

それの答え、もしくは解かるためのヒントがほしくて討論会や学会にもよく足を運んだ。2002年に行われた弦楽器製作者の討論会に参加した折、ある製作者の言葉に愕然とし此処に答えがあったと思い喜んだ直後、より深い迷路に解き放たれた。そして複雑な充実感と“なんて完璧でずるい言葉“という印象をかかえて帰路に就いたことを今でもよく覚えている。

その言葉とは”Liuteria e armonia” 日本語にすると“楽器作りとは調和である”。となるだろうか。線の統一感という概念が、調和という言葉を聞いたときにピカーンと閃きわかった気になった。実際には先述したように手を動かしていくしかないことは解かっているのだが第2ヒントがほしくて仕方なかったのでうれしかった。しかし直後に気がつく。調和はあくまでキーワードということに。

 私がずっと悩んでいたことは、いわば外観面に大きく影響することで、音響面でのことではない。もちろん音響的なことも考えてはいたが、それよりも目下の課題とされていることはそれではなかった。音響面においても、というよりもむしろそちらのほうが重要事項だろう。
あぁ、ここにもアルモニーア(伊語で調和の意)という言葉がぴったりと意味の薄い模範解答を示している。弓で弦を擦り如何に上手く楽器を振動させ、空気の振動に変えるという一連の作業を完結させるかということ。この単語はその難題を一言ですべてを言いくるめてしまう。

様々な研究、特に数学的アプローチからのヴァイオリン研究にはこのキーワードは大きな意味を持つのだと思う。が、それだけではさっぱり?である。問題はどのように調和させるかを決定する美意識なのではないだろうか。

楽音の調和への美意識は奏者のものであり楽器を作る側の問題ではないので如何にそれを容易にできる道具に仕立てられるかということが音響的な意味での製作者としての仕事であると思う。この二つの調和を意識しながら平素楽器製作にいそしんでいる。最近は“音に入れる”という新しいキーワードも加わった。

 私にとって、とても有り難かったのはこの意識を気づかせてくれたわが師匠達の教えが「俺はこうするけどね」の“けど”にあり、決して“こうするんだ”と表現しなかったということ。
また私の感覚を見抜き、いただいた助言がそれを理解するのに早いだろうと解かって与えてくれたことだと感じている。
彼らもまた、先人の美意識を理解するために、時にそれらを模倣し、吸収する努力を続けている。そんな彼らに追い付くのは至難であるが、影響を受け追随したいと思っている。

 私の作る楽器が、演奏者によって大気を震わせ聴衆の鼓膜を通じ心にまで響いたならば、先述のずるくて完璧なフレーズがとりあえず完全調和したのではないかと勝手に思っている。
また、そう在りたいなと願っている。

次回は4月20日更新予定です。