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歴史のレイヤーはプリズムの如く ~モンテヴェルディの生家~

第275回 西村 翔太郎 (2023.8.20)

 イタリアは、しばしば「20の州からなる小さな国の集合体」と称されます。
それは、歴史的に大小様々な都市国家が競い合い、互いに切磋琢磨して個性豊かな文化を育んできた結果で、風景や生活習慣、料理など、州ごとに異なり、同じイタリアであるにもかかわらず、まるで異なる国々を訪れているかのような感覚になるほどです。
さらに目を凝らしてみると、その違いは都市ごとにも変わり、さらには教区ごとにも異なります。各教区には聖人の祭りがあり、教区同士で競い合うお祭りが行われる都市もあれば、自身の教区外の教会で冠婚葬祭を行いたい場合には、教区の司祭同士が協議を行う必要があるなど、独立した都市のような強固な共同体意識と文化が存在しています。

 

 私の住んでいるサン・ミケーレ教区は、クレモナの旧市街の最東端に位置します。この教区は、かつての貴族の邸宅が並ぶ厳かな通りと、以前は川が流れていた場所を暗渠にして新たな住宅地となった庶民的な裏通りと、対照的な魅力を持っています。
その名前の通り、サン・ミケーレ教会がまとめる地域で、かつては東部の大都市との玄関口でもあったために5mにも及ぶ城壁がそびえ立っていて、その一部が教会の脇に残っています。サン・ミケーレ教会は、西暦603年にクレモナがゲルマン民族のランゴバルド人に占領された際、戦いの聖人ミケーレを祀るために建てられました。1124年からの数年間は、地震によって損壊した大聖堂の代わりに、サン・ミケーレ教会がDuomoとして機能していた事も有る程の、クレモナで最も古い教会の一つです。


サン・ミケーレ教会と今も残る城壁

 

 この教区にはかつて、バイオリンの歴史に深く関わる2つの家族が暮らしていました。
一つは、画家のカンピ家です。ガレアッツォ・カンピを家長に、3人の息子たちがミラノやクレモナで数多くのフレスコ画などを手掛け、クレモナを代表する画家一家となりました。
なぜ画家であるカンピ家がバイオリンの歴史に深くかかわっているのかというと、クレモナで最初のバイオリン製作家であるアンドレア・アマティの現存する最古の楽器は、フランス王シャルル九世に納められた33台の装飾が施された楽器たちですが、この装飾がカンピ家の工房で手がけられた可能性があるとされているからです。さらに、バイオリンの歴史研究において、歴代のバイオリン製作家たちの工房や自宅の場所を特定する際に参照される地図も、次男のアントニオ・カンピが描いたものです。
カンピ家はクレモナのバイオリン製作の歴史において重要な役割を果たし、芸術と音楽の交差点に立つ存在として、美しい遺産を残したのです。


カンピ家が描いたエンジェルや柱や女神と楽器の装飾の共通点を、
美術史家のマルコ・タンツィ氏などが指摘している

 

 そして、もう一つの家族がモンテヴェルディ家です。
オペラや古楽がお好きな方であれば、この名前に耳覚えがあるかもしれません。作曲家のクラウディオ・モンテヴェルディは、この教区で生まれました。
クラウディオ・モンテヴェルディの音楽界における業績は数え切れないほどですが、バイオリンにとってもっとも大きな影響を与えた作品は、オペラ「オルフェオ」です。この作品は、モンテヴェルディが1607年に作曲した最初のオペラであり、その時代において音楽劇がフィレンツェのアカデミアを中心に作られ始めていた中で、音楽史上初めての本格的なオペラとも言われています。バイオリンにとってもこのオペラが特別な理由は、楽譜の最初のページや楽譜中に楽器編成の指定が明記されており、これによって音楽史上初めてバイオリン属の楽器が明確に指定されたからです。これはバイオリン属がオペラの演奏において重要な役割を果たすことを示すものであり、その後の音楽史においてもバイオリン属が重要な楽器として発展する礎となりました。

クラウディオ・モンテヴェルディ(1567ー1643)と
オペラ「オルフェオ」の楽器編成を指定するページ

 

 このクラウディオ・モンテヴェルディが生れた生家は現存していないのですが、実はその跡地に建てられた家が、現在の私の自宅兼工房です。
家を購入するに際して、以前のオーナーからは何も伝えられていなかったのですが、この教区の歴史について調べていた際に書かれていたモンテヴェルディ家の住所が、どう読んでも我が家を指しており、お隣さんに聞いたところ周知の事実だったようです。
記述によると、数メートルの小路がありその奥にある家で生まれ、前述のアントニオ・カンピがクレモナの地図を描いた頃には、既に小道部分まで吸収する様に家が建て替えられた、となっていました。
確かに我が家はとても特殊な構造をしていて、両隣に対して我が家だけ独立した構造になっていたり、壁が外壁のように分厚かったり、地下室が大通りの下までつながっていたり。正に記述に添う作りで、ようやく我が家の謎が解けたと共に、バイオリン属を積極的に活用しだした作曲家の生れた場所で、日本人である私がバイオリンを製作する事に、様々な思いが去来しました。


真ん中に挟まれた自宅兼工房、裏に回ると独立している

 

 イタリアは大小様々な歴史のレイヤーがあらゆる所で層をなしていて、普段は透明で見えなくとも、それを切り取ってきては日常へ投影すると、また見慣れた日常が違った色で輝きだす、プリズムの様な魅力を持っています。
イタリア人が自分の住む小さな共同体まで、飽きる事なく愛し続けている理由は、ここにあるのではないかと思っています。