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音の記憶

第137回 伊藤 丈晃(2017.04.05)

仕事がら、何かと音について思考を巡らせる日々ではありますが、最近は自分の音に関する記憶について少し考えていました。

そんな中で、「これは自分の中にある音の記憶で案外重要なものなのでは?」と、思い当たったものについて書いてみようと思います。

それは何の音かというと、こどもの頃に耳にしていたピアノの音です。

あ、極めて普通すぎる感じでスミマセン・・・。

でも、僕がここで言っているのは、ピアノを弾かない(弾けない)こどもが、端から聴いていたピアノの音のことなんです。

僕には二人兄がいて、兄弟で一番上の兄だけがピアノを弾いていました。人から聞くところでは、当時の兄は結構な腕前だったようであります。

兄がそのピアノの腕を結構期待されていたというのを、ある意味で象徴してもいる気がするのですが、我が実家には一時期、アップライトピアノとグランドピアノが両方ありました(そんな余裕がある家庭なわけでもなく、しかも男三兄弟中一人しか弾かないのに・・・今思うと気合が入っていました、伊藤家)。

そんな環境もあって、ピアノを弾く立場にない自分にとっても、定期的に調律師の方が、家に来たりするのがちょっとしたイベントで、普段覗けないピアノの内部とかが、今日は一瞬見られるんじゃないかと(邪魔になるので、調律中はピアノの部屋には、基本入れてもらえなかったのですが・・・)うろうろ、ソワソワして、それを勝手な楽しみとして過ごしていたのを憶えています。

そんな感じでしたから、やはりピアノそのものにも興味はありまして、端で聴いていただけの僕も、フタ開けてピアノの音をただ鳴らすのは好きでした(あくまで曲を弾きはしないのですが)。おかげで、自分が進学して東京へ出るまで、アップライトとグランドの響きの違いを、同じ部屋でいつでもすきに遊びで鳴らすことが可能でしたから、環境としても経験としても貴重だったなと今は思っています。

ただ、自分でも興味深いのは、いつも我が家には兄がピアノを練習する音があったとはいえ、実際の日々は別段それを意識もせずにいましたし、その多くは壁をはさん聴こえてくるような状況が多かったはずです。それでも、無意識には体に取り込んでいたようで、今でもたまたまショパンのエチュードのCDなど聴く機会などがあると、「あ、これも・・・あ、これも、知ってる。」と(ジャンルに限らず曲名とかメロディーとか、普段はなかなか意識しないと記憶できない僕なのですが)ピアノ曲となると、案外数多く耳に刻まれてしまっているのです。

さらには、何かにつけてピアノの音が自分の耳に入ってくると、むかし聴いた兄の弾いていたピアノの音(記憶)と、どこかで比較・参照して聴いてしまっている自分がいる事にも気がつく瞬間があります。

そんなこんなの実感から、その人の耳の特性(好みなども含む)は、おそらく習慣や過去に耳にしたものの記憶の影響を受けて形成されているんだろうなという感覚を僕自身は強く持っています。

そう感じるようになってから特にかもしれませんが、日ごろからの自分の聴覚経験(本当は、食べるとかあらゆる経験に共通して言える事なのかもしれ ませんが・・・)を、できる限り豊かで質の良いものにしたいと思うようになってきています。

僕の場合、仕事道具でもある耳に、良い感じのものが入ってきた時の感触を、できればそのまま覚えてしまいたい(習慣にしてしまいたい)といったイメージでいます。

ここまで書いたところで、「では良い参照点となるヴァイオリンの音体験とは」を考え始めたくなっているのですが、これも結局は、常にいろいろな経験を重ねて探求してくしかないのかなと思っています。そのためにも、やっぱりたまにはいいコンサートを聴きに出かけて、生の良い音もたくさん味わっていきたいものです。

(本日届いた、坂本龍一さんのニューアルバム「async」のピアノの音を聴きつつ)