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故・前田壮学氏の追悼に寄せて

第241回 大森 琢憲(2022.2.20)
大森 琢憲

-西暦1550年、イタリアの古今の美術家133人の生涯とその活躍を伝記として記述し『画家・彫刻家・建築家列伝』として 出版したジョルジョ・ヴァザーリの献辞の一節

 

■ 故・前田壮学氏の追悼に寄せて

 昨年末、このコラムの執筆を連絡された折、ちょうど楽器製作の手順について、自分が過去に製作・修理に使用してきたニスの種類をオイルニスに変更しようと16-17世紀の美術文献の調査を行っていて、これを題材にコラムを書こうと準備していたところ、まだ新年の気分も残る1月26日、当協会の連絡網を通じて会員の前田壮学さんが急逝されたと知らされ大変驚きました。
 前田壮学さんとは同い年で、岩井孝夫氏主催のバイオリン製作学校で約2年、毎日作業部屋で木工机を並べて作業していましたし、3年目にイタリア留学を決意された時の颯爽とした姿、そして学業成って2010年に帰国された翌年の展示会でお会いした時「イタリアで作った楽器だよ!」と見せていただいた時は、その楽器の完成度の高さと共に、これからは家業であった弦楽器工房の後を継ぎ、また楽器製作者としても末永く活躍されるであろうと疑いもしなかった所に飛び込んできた突然の訃報。同月29日、急遽参列させていただいた通夜式で対面させていただいても、まだ亡くなられた実感がわかないというのが正直な気持ちでした。
 
 そして去る2月10日、ニスの資料返却のため岩井さんの工房を尋ねた折に、二人で前田さんの思い出を偲びながらささやかながら彼のために何か残すことができないだろうかと話し合い、今回のコラムではこの場をお借りして製作学校時代の前田さんの思い出を記すことにいたしました。

 

■ 修業時代の想い出

 前田さんと初めてお会いしたのは2002年の4月、当時高槻の松原町(国道171号線沿い)で運営されていた岩井孝夫氏のバイオリン製作学校に入学したその日でした。生まれは前田さんも僕も同じ1983年なのですが僕が5月生まれで学年が一つ違ったため、1年先に入学した先輩として挨拶したのが最初の会話だったと思います。

 

2002 年 3 月 16 日 バイオリン製作講演会での演奏の様子。中央白いシャツの男性が前田さん

 

 当時の製作学校は講師として岩井さん・鈴木(郁子)さん、臨時講師として幸田さんという3人の先生と僕ら生徒が11人。
入学後すぐに道具の使い方から、課題を与えられての木工作業の勉強が始まるのですが、その時に「怪我をしないように」と工具について前田さんから色々な助言をいただいたのをよく覚えております。

 というのも、高校を卒業してすぐに製作学校に入ったという点では共通なのですが、前田さんは父君(前田與一郎氏)が以前から活躍されていたベテランのバイオリン職人であったので、若いといってもバイオリンの木工に使う道具はすでに理解している状態、それどころか前田さんと同期で入学された宝木さんと馬戸(崇之)さんも共に父君が弦楽器職人・楽器商であったため、そこに木工経験のない僕が新入生として入り、おっかなびっくり刃物を持っているのは、先輩である前田さん達から見れば、よほど危なっかしい姿に見えたのでしょう。

 無論、講師の岩井さんや鈴木さんからも道具の使い方と課題についての説明・作業法の説明はあるわけですが、この学校では基本的に一人につき木工台が一台・道具も一人1セット。それらの配置や段取りを自分自身で決定し、どうしてもわからなければ質問するという形式で日々が進むため、座学以外は各人が自分のペースで作業するので必ずしも先輩が新入りに助言するという義務はないわけです。そういう、右も左もわからぬ状態でとにかく作業をやっている時に先輩から助言が貰えるというのが、どれだけ有難いかはご想像いただくだけでもよくわかると思います。
 
 製作学校1年目の課題というのはまずメープル材(バイオリンの裏板と同じ)で指定された寸法の立方体を作り、その中心にドリルで穴をあけ、それができたらバイオリンの表板・裏板を作る時の固定台を作り…と、まず「楽器製作に使う工具を自分で作る」という作業をこなしていくわけですが「これはどんな風に作ったんですか?」と雑談したり、あるいは2年目の課題である楽器製作をすでに始めている前田さんたちの姿をみて(よしっ、いずれ自分もあんな風に!)と大いに励みになったのは言うまでもありません。

 

製作学校時代に課題で作り、いまだに使っている楽器固定台

 

 また、製作学校兼工房である建物には作業部屋の隣にもう一部屋、ニス塗り部屋兼休憩室があり、ここで楽器のデザイン・寸法に関する座学とイタリア語の授業を受けていたわけですが、ここはある意味生徒のたまり場にもなっていて、昼食時や休憩時間によく糟谷(伸夫)さん・宝木さん・前田さん達と集まり、机に楽器の写真集を広げては「どの製作者が好きか」「どの楽器が良いと思うか」という話題であれこれと意見を交わしたものでした。前田さんと僕は18-9の若者で残るお二人も20代、僕自身はまだ楽器の良し悪しもわからないので3人が色々と意見を述べるのをうんうんと頷いて聞いていただけですが、なんといっても血気盛んな頃ですから資料の写真を見て思い思いに批評したり、気になる点を述べてみたりと、皆目がキラキラ輝いていたのがとても印象的でした。
今でも前田さんを思い出そうとすると、まずあの頃の印象と姿が心に浮かんできます。

 

■勇躍、イタリアへ

2003 年頃 4 年生の卒業試験監督のため来日したジョルジョ・スコラーリ氏と前田さんの記念写真

[写真説明]
 当時、岩井さんが主催していた高槻のバイオリン製作学校に卒業試験の監督としてGio Batta Morassi氏とGiorgio Scolari氏が隔年で来日され、卒業製作の楽器を実見してもらいディプロマ(卒業の証書)に署名をもらっていました。
写真はジョルジョ・スコラーリ氏(イタリア国立バイオリン製作学校副校長・当時)

 

 2002年春に僕が入学してから1年が経った頃だったでしょうか。そのころ自分はようやく楽器製作の作業に入ったところで、人生初の表板・裏板の剥ぎ(裏板・表板の材木を二つ割にして2枚を隙間なく接着する作業)がまったくうまくできず、鉋を片手に2週間(!)ばかりもうんうん唸っていたちょうどその時、例の”たまり場”で前田さんと宝木さんが講師の岩井さんと話し込んでいることに気づきました。その後、部屋から出てこられたので「どうかされましたか?」という僕の質問に「実はイタリアに行こうと思うんだ」という話をされたのが、前田さんのイタリア国立バイオリン製作学校への留学の志をお聞きした最初であったように思います。
 その時は頼りにしていた先輩が急にいなくなるという話ですから個人的には心細くも思ったわけですが、よくよく考えてみると師匠である岩井さん自身も楽器製作を志し、1980年に自転車1台を担いでイタリアへ渡ったという異色の経歴があり、この前田さんのチャレンジ精神を褒めこそすれ反対するような師匠では決してないわけで、そう思うと本人がさらなる高みを目指してイタリアへ行こうと決意されたこの海を越える挑戦がぜひともうまくいってほしいなという気持ちで自分も送り出す事ができました。

 

 

 先日、この思い出話を岩井さんと話した時、さらに当時の詳細を教えてもらえました。この時、最初に留学を予定していたのが宝木さんで、前田さんも行くなら一緒に、という話になり、同じ年に留学しようと準備していたところ、宝木さんが既に家業のバイオリン工房を手伝われていて(かつ翌年、宝木さんの父君が亡くなられたという)諸事情により留学は数年ずらすという話になり、尋常な人ならばその時に取りやめて引き続き生徒を続けるという道もあったように思いますが、ここで一歩退かなかったのが、あるいは前田さんの精神的な強さだったのか、一人でも行こうと決意されたのは非常に勇気ある決断であったように思います。

 

2003年  イタリア留学直前の前田さんの記念写真 空手着が前田さん(右が筆者)

 

『なぜ空手着なのか?』そう思われた方、もっともなご感想です。もちろんイタリア留学に空手着と黒帯が必要だったというわけではありません。実は以前から前田さんが空手を習っていて、かつ黒帯であるらしいというのは生徒同士の世間話で聞いていたのですが、誰も見たことがなかったので「本当ですか?」と聞くのがある種の”持ちネタ”のようになっていたのですが、この日「最後の機会なので空手の演武を見せましょう」と本人が言いだした時には一同びっくりしたのは言うまでもありません。

 そして工房の中央でキレの良い動きで空手の型を披露してくれた後、「正拳突きで板を割って見せる」という前田さんに、それならばと応じて板を持つ役を買って出たのが自分でした。「この二人は何をやっとるんだ」という周りで面白がる視線を受けつつ、(1回目は僕の持ち方が悪くて上手く割れませんでしたが2回目で)見事に板を割った前田さんの雄姿が思い起こされるこの日の記念写真は今も師匠である岩井さんのアルバムに大切に保管されています。そしてもちろん、お互いまだ二十歳にもなっていない青年同士で楽しくふざけあったあの日の思い出は僕の心にも鮮明に残っています。

 

■イタリアでの研鑽と人となり

[写真解説]
前田さんが留学されていたイタリア・クレモナ市の名物『トラッツォ』(塔)
14世紀初頭に完成、高さ100メートルを超えるレンガ建築としては世界最古の建物として建築・美術史においても有名2012年筆者撮影

 

 イタリアの国立バイオリン製作学校に入学されてからの現地での出来事は帰国後にお聞きした話としてしか知りえませんが、そのあらましを述べるとすれば2003年入学後Massimo Negroni氏の授業を受け、またFrancesco Bissolotti 氏に知己を得てその工房に通い、2007年に学校卒業とともにNicola Lazzari氏の工房と、当代一流のバイオリン作家の工房で技術を学ばれ、現代クレモナらしい華やかで美しい楽器の仕上げを修められました。
2010年に帰国後、本協会の展示会にも出展されていましたのでその楽器を展示会で実際にご覧になった方もおられると思いますし、近来は父君である與一郎氏と共にVIOLIN HOUSE MAEDA & SON 工房の共同代表として就任し、まさに今から前途洋々たる時期でもありました。

 前田さんが帰国された後の2012年、僕も初めてのコンクール出品のためにイタリア・クレモナ市を訪れ、現地の製作者の方々の工房を訪ねた折には前田さんのご活躍ぶりや『イタリアの空手道場で前田さんと組手を戦った』という方の愉快な話も伺うこともできましたが、いずれ互いに年を経てお会いした時に若き日の思い出としてご本人の口から聞けるものと楽しみにしていた話も、今や永遠に叶わないものになってしまいました。
 まして、突然の心臓の病により思いもかけず他界されることになったご本人・残されたご家族・家業の頼みとするご子息を若くして失ったご両親の残念はどれほどか、心中を察するに余りあることではございますが、自分も些少な期間ながら共に机を並べ厚誼に与かった身として、日本で、あるいはイタリアで、前田壮学さんの死を悼む多くの方と同様に感謝と哀悼の意を申し上げたいと思います。そしてイタリアで学び研鑽された成果として残された楽器達が、その形のある限り音色と共に亡き前田壮学さんの志を未来に伝えてくれる事を祈念して、この細やかな追悼文の結びとさせていただきたいと思います。

前田壮学さんのご冥福をお祈りいたします。
2022年2月15日 大森琢憲

 

■追記・思い出の頭像

 *本コラムの原稿の締め切り直前に、岩井さんから「前田さんの記念になる物がもう一つあったよ」と送って貰った写真がありましたため、この文章を追記させていただきます。

 

バイオリン工房クレモナ・高麗橋工房の店頭に飾られているオブジェ

 

この写真を見たとき、大変懐かしい気持ちになりました。
 この『スクロールとヴィーナス』のオブジェは現在、岩井さんの高麗橋工房の店先に天気の良い日に置かれているものですが、ここに飾られているチェロのスクロール(渦巻)と木彫りの頭像は当時製作学校の生徒であった僕らが中間試験の課題として作った物です。
そして、2003年当時の在学生であれば、これを一目見て名前が書かれていなくても前田さんの作品だとわかるものが写っているのです。

 

2002 年に前田さんが彫刻した頭像

 

オブジェの正面中央に一つだけデザインが違う頭像があります。
じつはこれは「ヴィーナス」ではなくギリシャ神話に出てくる女神「アリアドネ」の頭像で、当時課題として学校に置かれていたヴィーナスの石膏像の一つが割れてしまっていて生徒の数に足りなかったため、前田さんは予備として余っていた「アリアドネの石膏像」を見本として彫刻し、その結果一つだけデザインが異なる頭像が残ることになったわけです。ちなみにその翌年入学した僕は同期入学が他におらず、製作学校としても最後の生徒募集だったのでこの彫刻課題の石膏像は「好きなほうを選んでいい」ことになり、ヴィーナスを選んだので、この女神像を彫刻したのが前田さん以外にいないので間違いなく本人の作とわかるわけです。

 そして、この弟子時代を振り返る懐かしい頭像を見ながら、コラムの冒頭にも引用させていただいたジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』の中からもう一つ思い出した文章がありました。
 それは1550年に出版されたこの列伝の初版と、18年後さらに30人の列伝を書き足して出版された第2版を比較していた時、初版には無く、第2版の表紙にだけ足されている文字があり、その文章は、彼がなぜ過去の芸術家たちの列伝をこれほど熱意を込めて書いたのか、その理由を示すに相応しい言葉でした。最後にその表紙の言葉をご紹介し、改めて本コラムの結びとさせていただきたいと思います。

 

 

 願わくば、このコラムに書かせていただいた小文がご遺族様にとっても慰めとなりますように。また将来、日本における弦楽器製作者の歴史と系譜を著述しようとする意欲的な方が現れたならば、同業の先達のみならず、皆の良き友人でもあったバイオリン製作者・前田壮学氏についても一筆の労をとっていただきたいと願い、その経歴と人となりをここに記しておく次第です。

2022年2月17日 大森琢憲
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最後までお読みいただきありがとうございました。

《出典》
*本文中に掲載した文章の和訳・現代語訳・挿絵は以下の書籍から引用しました。
1.ジョルジョ・ヴァザーリ著『美術家列伝』第1巻 中央公論美術出版
2.水野弥穂子訳『正法眼蔵随聞記』筑摩叢書5
3.その他写真・バイオリン工房クレモナ 岩井孝夫氏所蔵の記念写真