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幻の楽器との出会い

第322回 西村 翔太郎 (2025.8.05)

   こんにちは、クレモナの西村翔太郎です。

昨年、思いがけない依頼をいただきました。依頼主は、日本が誇る東京クヮルテットの創設者でチェリストの原田禎夫さん。そのお声がけは、一台のチェロのコピー製作についてでした。

「この楽器のコピーを作っていただきたい」

原田さんのお話では、長年お使いのGBガダニーニのチェロだということでした。
数週間後、私はドイツのヴッパータールにある原田さんのご自宅を訪れました。
暫く雑談した後、それでは本題にと楽器ケースから取り出された瞬間、私は息を呑みました。
それはガダニーニの深い琥珀色のニスが、ドイツの春の陽光に静かに輝いていました。裏板と横板のコントラストの美しさ、そして何より、250年以上の時を経てもなお、最良の状態が保たれていることに身震いを覚えました。

しかし、さらに驚いたのはその後でした。
楽器を詳しく見ているうちに、これがただのガダニーニではないことに気がついたのです。その特徴的なサイズ感、表板と裏板のニスの剥がれ方、まさにガダニーニ1743年「von Khoner」と呼ばれる楽器で、実に40年以上にわたって持ち主が不明、たった一度だけアメリカの写真集に掲載されたきりという、まさに幻の楽器だったのです。

「原田さん、これは現存するガダニーニのチェロ約30台の中でも、現代のフルサイズといえるサイズの楽器はたった2台しかなく、そのうちの1台、極めて貴重な楽器ですね」
私がそうお話しすると、大変驚かれていました。
ご自身が所有されている楽器がそれほど特別なものだとは、それまでご存じなかったのです。
42年前にアメリカのシカゴの名店Bein&Fusiで一目惚れし即決で購入したとのこと、その際に詳しい説明はなかったとのことでした。

 その後、私がこの楽器についてさらに調べていく中で、運命的とも言うべき原田さんとこの楽器のストーリーが見えてきました。
楽器の名前の由来となったvon Khoner男爵は、ハンガリーのユダヤ系の貴族で、芸術に大変造詣が深く、膨大な数の印象派の絵画コレクションを持ち、趣味でチェロを演奏し作曲家のリストや
プッチーニとも親交がありました。そこに脚繁く通い、長年に亘って生活費の援助まで受けていたのがハンガリーの作曲家バルトークでした。
原田さんが立ち上げた東京クワルテットの名演といえばバルトークです。ドイツグラモフォンのバルトーク生誕100周年記念全集のレコーディングも東京クワルテットが録音、なんとこのバルトークも親しんでいたチェロで演奏されていたのでした。

 さらに驚いたのは、この楽器は以前にブタペスト四重奏団のチェリストのミーシャ・シュナイダーが演奏していた事です。
ミーシャ・シュナイダーは原田さんの先生でありご友人でした。ブダペスト四重奏団はアメリカ議会図書館の専属カルテットを務めており、その後任としてジュリアード四重奏団が引き継ぎました。そして、そのジュリアード四重奏団の勧めによって結成された東京クワルテットが、アメリカ議会図書館専属カルテットの地位を引き継いだのです。
いわば正統な後継者に当たります。
このガダニーニはまるで導かれるようにして原田さんの手元に来たのでした。
40年越しに全てを知った原田さんはとても感慨深げでした。
製作家として、こんなに運命的な楽器のストーリーを伝える役目を担えて、私としても嬉しく思いました。

 

科学的アプローチによる解析

今回のコピー製作では、単なる外観の模倣を超えた取り組みを行いました。

日ごろから共同で解析などを行っているクレモナの博物館にこの楽器を発見した話をすると、今後のデータベースの為にもぜひ解析したいとの協力を得て、パヴィア大学のチームと楽器のニス成分を詳細に分析し、ミラノ工科大学のチームと音響特性についても、綿密な測定を実施しました。博物館にとってもガダニーニの楽器を科学的に解析する貴重な機会となり、研究資料としての価値も高いプロジェクトとなりました。その成果については、いずれまとめて発表しようと思っています。

現代技術との融合

さらに今回は、著名な鑑定家ブロット工房に所属し、デジタル技術のエキスパートである野瀬光星氏の協力を得る事が出来、最新の3Dスキャン技術を駆使して楽器の形状を完全に記録することが出来ました。精密な3Dデータをパソコンやスマートフォン上で閲覧するだけでなく、3Dデータから作成した最新の3Dプリントモデルは、スクロールで0.1mm、ボディで0.2㎜の精度で再現されています。博物館にもないほど最高精度で再現する事ができ、傷や歪みの位置の確認まで、製作過程で何度も参照する貴重な資料となりました。

伝統的な手作業による製作技術と最新のデジタル技術の融合。そしてそれが、工房から半径300m以内ですべてが完結できるのがクレモナの強みであると、改めて実感しました。

楽器の完成

準備期間を含めて10ヶ月の製作期間を経て、ついにコピー楽器が完成しました。
一台の楽器製作の為に結集した専門家の数と規模は、世界でも類を見ないものとなりました。
それは一重に、楽器の希少性と美しさ、そして何より、紡いできた物語が皆を引き寄せたからにほかなりません。 私が製作した楽器も、今はまだガダニーニ1743von Kohnerがこれから先も紡いでいく物語の一部にすぎません。

しかし、この楽器もこれから原田さんの手によって、枝分かれしたサイドストーリーとして、物語を紡いでいく事を願っています。

完成したGBガダニーニ1742von Khonerのコピー