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初心を忘れないために

第95回 菊田 浩(2015.05.20)
菊田 浩

いつまでも初心を忘れない気持ちはとても大切なものですが、日々の暮らしに追われていると、どうしても過去の出来事の記憶が薄くなってしまうのも事実だと思います。

大切な記憶を思い出すきっかけには、人それぞれ、いろいろなものがあると思います。当時の音楽を耳にすること、本を読み返すこと、などなど。また、その頃に購入した物や、愛用した物にも、大切な記憶が残されていることもあります。私にとっても、大切なものはいくつかありますが、その中でも、ひときわ強い記憶を呼び覚ますものがあります。

なんとも愛嬌のある顔をしていますが、、これは、パソコンに使うマウスです。この、カエルマウスについて、今日はご紹介させていただきます。

今から14年前、私は、ヴァイオリン製作家になる夢を叶えるため、20年間勤めた会社を退職し、妻と二人でクレモナに渡ったのですが、退職届を提出してしまった後で、ふと思いつき、最後に二人で人間ドックを受けることにしたのです。理由は、在職中に人間ドックを受診すれば、費用が安く済むという安易なものでした。

イタリアに渡る一ヶ月ほど前に受診して、その日の午後には結果が出るとのことで、軽い気持ちで説明を聞きに行きました。結果説明では、私自身は特に問題が無かったのですが、妻のほうに、精密検査が必要な項目がありました。部位的に、万が一、異常が見つかった場合、場合によっては即入院、手術も考えなければいけない病名でしたので、一ヶ月後に迫ったクレモナ行きも危ういですし、すでに退職届は受理されていますので、これはとんでもない状況になってしまったわけです。

一週間後の再検査まで、暗い気持ちで過ごしたことは言うまでもありませんが、でも、もしこのタイミングで病気が早期発見できたとすれば、それは結果的に良かったのではないかと、ポジティブに開き直って、病院に行きました。

凍り付くような気持ちで聞いた精密検査の結果は、「異常無し」でした。
二人とも、結果を聞いて、力が抜けて倒れそうになりました。

脱力感の中、帰宅途中に電気店に立ち寄り、留学生活に必要になると思われるノートパソコンを購入しました。
実は、人間ドックで異常が見つかってから一週間、放心してしまって、再検査が済むまでは具体的な準備をする気になれずにいたのですが、異常無しと聞いて、本当にイタリアで生活をすることになるのだと実感し、覚悟が決まったことで、最初にしたことがパソコンの購入だったのですが、それは、その日のうちにすべきことのような気がしたのです。

その時に、マウスも必要だったので、いろいろ見ていたら、このカエルマウスが微笑んでいたというわけです。

当時の心境としては、長年勤めた会社を辞めて、まったく未知のイタリア生活が始まるので、もちろん希望は大きかったですが、同じくらいの不安な気持ちもあったのは事実でした。そして、精密検査の結果待ちで押しつぶされそうな心境になっていましたので、このカエルの微笑みを見た時は、大げさですが、天から祝福されているように感じたものでした。

一ヶ月後から始まったクレモナでの留学生活は、日々、不安だらけの毎日でしたが、カエル君の笑顔のおかげで、ずいぶん癒やされた気がしています。製作学校では、入学早々いきなり小論文の課題も出て、イタリア語で苦戦しましたが、あの日に購入したノートパソコンとカエルマウスのおかげで、良い点数を獲得することができました。

パソコンは、その後、調子が悪くなり、買い換えることになっても、カエルマウスはそのまま使いたいと思っていたのですが、その頃から、マウスはUSB接続が主流になってしまい、PS/2接続だったカエルマウスは使えなくなってしまいました。

これは悲しい出来事でしたが、もっとも苦しかった時期を見守ってくれたカエル君ですので、今でも大切な宝物として、時々取り出しては眺めています。

目玉の塗装がクリックで剥がれたカエルマウスを見ていると、14年前のあの頃の記憶が鮮明に蘇り、今日からまた健康に気をつけて、頑張って生きていこうという気持ちになれるのです。

次回は6月5日更新予定です。

次回、関西弦楽器製作者協会展示会は2018年4月22日(日)です